札幌演劇シーズン2018冬のトップバッターを切って上演されたELEVEN NINES「サクラダファミリー」。結局、3回も観に行ってしまった。
ELEVEN NINESの「サクラダファミリー」は脚本・演出そして、桜田イワオ役を演じる納谷真大が、2012年の4月にオトンに勘当されたことから生まれ、その年の12月に演じられた劇である。それから、5年を経て再演の運びとなり、その初日の直前にオトンがご逝去されたとのこと。享年78歳。桜田イワオと同じ年齢である。どこの神様仏様がこういう偶然という必然を生み出してくれちゃってるのだろう。納谷さんの胸のうちを思うと苦しくなるが、この舞台、何かが起こるに違いない! と思った。
家族の集まるところはリビングなんて呼ばれる場所ではない。畳敷きに座卓の、茶の間。茶だんすがあって、黒電話が鳴り響き、大きな日めくりは2017年12月31日の大晦日。家長のイワオに招集をかけられた桜田家全員がこの茶の間に集まる。
4人の息子と3人の娘は、全員腹違い。我儘で横暴なイワオに全員がうんざりしている。次男のナツオに至っては25年前に家を出てそれっきりだった。
馴れ合いや、じゃれあい。ちょっとしたことに、カッとなるのも、距離が近すぎるから。わたしたちが爆笑したり、苦笑いするのは、桜田家の情景に対してというばかりではないだろう。自分のとは似ても似つかない家族の話になぞらえて、自分の家族のことをつい思ってしまう。同じことがなくたって、家族の問題なんて多かれ少なかれ似たようなものだ。(7人兄弟全員腹違いなんて、そうそうあってなるものか(笑))
印象的に使われていたのが、トイレが詰まった時に使う先端に黒いゴム製のカップがついているアレ。パコパコやら、スッポンやらいろんな名前で呼ばれていたアレ。(正式名称はラバーカップだそうな)それぞれに違う名前で呼ぶたびに「普通それは○○だろう!うちではそう呼んでる」と反論する。その家の普通が他の家では普通ではないということ。普通じゃない桜田家と本人たちは思っているけど、どの家だってその家の普通が存在して、それは他の家から見たら普通じゃないのだ。それに気づかずにいるだけ。
桜田家にイヤイヤでも残った子どもたちは、25年分成長している。成長するというのは、ある意味諦めを知るということでもある。ナツオは、そこから離れて、孤独や憎しみをかこったまま、成長できずに帰ってきた。
イワオに向けて言葉を投げつける姿は、小さい子どもが駄々をこねる姿にしか見えない。イワオの告白に、どうすることもできなくなる、小さなナツオ。
そもそも、イワオの真意を、子どもたちは考えたことがあっただろうか。
ナツオは、自分がいない25年間変わらず桜田家で作られていたお母さんの味のカレーを食べてしゃくりあげる。お母さんが大好きで、大好きなお母さんを苦しめ続けたはずのクソオヤジの真意を、どう受け止めていいかわからない未熟な男の子の姿だ。
それが引きがねとなって、他の子どもたちも、小さな子どもに戻ってしまう。声を上げて泣きだす。
涙が、桜田家の過去の遺恨を流していく。浄化の涙。
血の繋りがあるから家族なのだろうか。
それぞれ独立した子ども達の家のカレーがお母さんのと同じ味であったり、大嫌いなオヤジの口ぐせを無意識に口にしていたり。
なんだこれ、気づいてなかったけど、同じじゃないかということこそが繋りなのではないか。
でも、血が繋がっていたとしても、呆気なく崩れ去っていくのもまた家族であることをわたしたちは知っている。だから、桜田家の家族たちと一緒に涙が止まらないのかもしれない。
笑わせる、楽しませることを徹底的に極めるのが、ELEVEN NINESの舞台だと思う。
笑えば笑うほど、その底にある人の真意に触れた時、涙や感情があふれる。同様に「おかしい桜田家」は裏を返せば、血の繋がり以上に絆の強い家族なのだった。
1月21日18:00/24日14:00/28日14:00 コンカリーニョ
投稿者:わたなべひろみ(ひよひよ)
text by わたなべひろみ(ひよひよ)